笑って。~ブゥトン~





「ごきげんよう」
涼やかな秋の空にリリアン特有の挨拶が響く。
もちろん幼稚舎からリリアンだった私には、これが特異なものだなんて思ったことはないけれど。
「ごきげんよう、紅薔薇さま」
「ごきげんよう」
朝が弱いのは確かだけれど、挨拶してきてくれた子に無愛想な表情を向けられない。
軽く微笑みながら挨拶を交わし、それでも少しだけ足を速めつつマリア様へ向かう。

そろそろあの嫌な銀杏臭を放ち始める色づいた公孫樹並木が嫌だというのもあるが、何よりも私の大切な妹に早く会いたいから。
この時間なら急げば恐らくあの子はまだ手を合わせているだろう。
周囲の景色も妹に会えるという喜びで早まる足に合わせて流れていく。
私の視線に小さく灰色のマリア像とその前に立つ、濃い緑の影が見えた。





「ごきげんよう」
いつものようにマリア様の前で手を合わせ、初夏の木漏れ陽に揺れるお姿にしばし見とれていた。
そこへ背後からかけられた声に、私は全身で振り向いた。
「……ごきげんよう」
不機嫌なわけではない。
ただ、どうして私に声をかけたのかがわからなかっただけだった。
私が怪訝そうな顔をしていたからだろうか、彼女は覗き込むようにして私の顔を見ると、
「どうしたの、志摩子さん?」
これほどアップで迫られることに慣れていない私の心臓は、どきどきともの凄い速さで鼓動を刻む。
「あ、いえ。何でもないわ」
辛うじて微笑むことができたが、ちゃんと笑えただろうか。
そんな私の心中を察することもなく、彼女も安心したように笑うと少しだけ首を傾けて言う。
「行こ。遅れちゃうよ」
彼女の声はとても澄んでいて。
マリア様のお声は聞いたこともないけれど、きっとこんな感じなのだろうと思ってしまった。

高等部に上がってから、いえ上がる前からどこか浮いてしまっていた私。
それは私自身が心にやましさを持っているからなのだろう、私自身が悪いのだ。
それがわかっているからこそ、私から溶け込んでいく努力をすることができなかったのだし、そんな私を他の級友たちがどこか腫れ物に触るような扱いをしてしまうことに対してもどうしようもなかった。

そして、今声をかけてきた級友は以前から知っていたし今年は同じクラスでもあるのだけれど、私とは正反対にいる少女。
いつでもクラスの人たちに囲まれ、どこにもやましさや後ろ暗さを感じることもなく笑っていられる彼女に、私は羨望と嫉妬の入り混じった視線を向けてきた。
それがマリア様の御心に沿わないことであるとわかっていても。
「どうしたの?何かおかしいよ、志摩子さん」
玄関が見えてきたところで、彼女は足を止めて再び私の顔を覗き込んだ。
「どうもしないけれど……何故そう思うのかしら?」
一緒に足を止めた私の問いに、彼女はトレードマークとも言えるツインテールを揺らしながら「うーん」とひとしきり悩むと、
「いつもの微笑みがない、って感じかな」
「いつもの?」
意外だった。
私と彼女はそれほど親しくはない。
挨拶をされた私が戸惑ってしまうほどに。
恐らくこれほど言葉を交わしたのも、今日が初めてではないだろうか。
そんな彼女に「いつもの」と言われるほど私が彼女に笑顔を向けているとは、どうしても思えなかった。
「うん」
それだけ言って玄関に足を踏み入れ、桃組の下駄箱に向かう。
私も慌ててその後を追った。
「どうして?失礼だけど私はあなたにそれほど笑顔を向けていたとは思えないのだけれど」
下駄箱で靴を履き替える彼女に問う。
そんなに簡単に見透かされるほど私は軽くない、そんな自尊心が私の中で起き上がってきたのかも知れない。
私の語調も少し強くなっていたのだろう。
びっくりして目を見開く彼女の様子を見ながら、私は、マリア様にお仕えするには、まだまだ心に芯があると苦笑してしまっていた。
「それ」
「え?」
「その笑顔の方が志摩子さんらしい気がする」
「その、って……?」
分からない。
けれど、混乱してしまった私に対して彼女は極上の笑顔を向けた。





「ごきげんよう、黄薔薇の蕾」
「……ごきげんよう、蔦子さん。どうしたのよ、黄薔薇の蕾だなんて」
「だって、事実でしょう?」
「それはそうだけど」
正しい回答ではあるけれど、釈然としない気持ちが残った。
何が?
そう聞かれると困ってしまうのだけど、何と言うか、いつもの蔦子さんじゃないような。
それでいて、日常的に見ているような。
「不機嫌そうね」
「そんなことないわよ。ただ、何だか違うのよね。いつもの蔦子さんとは思えない気がする」
「厳しいけれど、的確なご指摘ね」
「お褒め頂いてどうも。で?」
「で、って?」
新緑の中、足を進めながら私は軽く溜息をつく。
この一癖も二癖もある級友は、今年になって初めて同じクラスになった。
癖がある、というのは別にカメラを手放さないということではなく、普通の人のような会話の楽しみ方をしない、という意味だ。
「朝から蔦子さん流の会話の楽しみ方は遠慮したいわ。お昼なら付き合ってあげるけど」
「なぜ?」
「それはお昼なら、ってこと?それとも朝からってとこに対する疑問かしら」
その質問には答えず、彼女は「あはは」と笑うと、
「わかったわ。敢えて黄薔薇の蕾って言ったわけじゃないのよ。何となくさっき挨拶してた1年生に合わせてみただけ」
偶には彼女の言動も、意味がないことがあるらしい。
それはそれで解決したけれど、やっぱりしっくり来ないのはなぜだろうか。
蔦子さんの言葉に返事をせず、私は視線を脇に逸らした。
新緑が気持ちいいけれど、やっぱり上空からの不意の攻撃が恐ろしい私たちは、示し合わせたわけでもなく2人並んで緑の下を避けながら歩く。
斜めに眩しい緑を感じながら何となくこれかな、という気がした。

「蔦子さんの表情、かしら」
「ご名答」
「何よ、わかっててやったわけ?」
私が非難の視線を向けると、
「わかってて、ってのはちょっと違うかな。少しだけ意識してみただけだから」
と、ぽりぽりと頭の後ろをかきながら答える。

緑の光に惑わされただけかと思った。
蔦子さんの笑顔がいつもと違う気がしたのだ。
あまりにも単純で感覚的だったから半分はまさかという気持ちの下で聞いたのだが、どうやら彼女は感づかれると予想はしていたみたいだった。
「何を意識したの?」
「祐巳さん」
「祐巳さん?」
思わず鸚鵡返しになってしまう。
「そ、祐巳さん」
そう言って今度はいつもの蔦子さんの笑みを見せると、そのまま玄関に入っていく。
私もその後をゆっくりと追いながら蔦子さんの言葉を反芻していた。

そうか。
何だかいつも見てるような気がしたのは、祐巳さんの笑い方と同じだったからか。
同じ紅薔薇でも、祥子さまや蓉子さまの笑顔とも違う、独特な感じ。
ただ明るいだけでなく、かと言って祥子さまや蓉子さまが祐巳さんに(だけ)見せるあの見守るような優しい微笑みでもなく。
穏やかな微笑み方なら、志摩子さん。
からからと笑うのは前白薔薇さま、聖さま。
令ちゃんはまるで男性のような……ちょっとそこんとこが複雑な心境なんだけど、そんな凛々しい笑い方。
江利子さまは……禍々し……いや、いいや。
それぞれ独特なんだけど、祐巳さんのそれはちょっと違う。
祐巳さんだけにあるのは、
「その後で、じわじわと幸せになるような、そんな笑い方よね」
松組の下駄箱で既に履き替えた蔦子さんが言う。
「……人の思考を読まないでよね」
そしてにやりと不適な笑いを浮かべるのが蔦子さん。
どうでもいいけど、あんまり女子高生らしい笑顔じゃないわよ。
「百面相。由乃さんもだいぶ祐巳さんにまいってるクチかしら?」
だから、そのにやり笑いはやめなさいってば。
確かに蓉子さまや祥子さま、聖さまや江利子さまに令ちゃん、志摩子さんまで山百合会メンバーの例に漏れず、私も祐巳さんにやられちゃってるクチではあるけど。

……ああ、そうか。
どうして祐巳さんがこんなに人を惹きつけて止まないのか、考えたことはなかった。
ただ、私なりに令ちゃんと話したことはあったのだけど。
それが今の蔦子さんとの会話ではっきりとした気がする。
「祐巳さんのあの笑顔にみんな降参しちゃうのね」
「そうかもね」
「かも?蔦子さんがそれを導き出そうとしたんじゃないの」
人が折角、推理小説の謎を解いた時にような爽快感に浸ってるのに、と不服そうに私が言うと、蔦子さんは苦笑した。
「別にそんな意図はなかったわよ」
「そうかも知れないけど……でも、その自信なさそうな言葉は何なの」
そう問うと、
「去年ね、志摩子さんとそのことで話したことがあったのよ」





「……志摩子」
「あら、ごきげんよう紅薔薇さま」
疾走するかのように足を速めていた私は、人影が大きくなるにつれて歩みを遅めた。
別に志摩子だったから、ではない。
祐巳でなかったから、それだけだ。
「ごきげんよう、早いのね」
「祥子さまこそ。祐巳さんかと思いました?」
くすくすと笑う。
真実ではあるし、それを言い当てられて悔しい気もするが、今日はそれにむくれる気は起きなかった。
「志摩子も、でしょう?」
「ええ」
志摩子は強くなった。
それは乃梨子ちゃんという妹を得たから、ではなく。
彼女の存在はそれなりに大きいのだろうけれど、志摩子を根本から変えたのはやはり祐巳なのだろう、そんな気がする。
「あなたにはこの季節が似合うわね」
朝礼の時間までだいぶ余裕がある。
偶には志摩子と立ち話もいいかも知れない。
「銀杏があるから、ですか?」
「そんなことじゃないわよ。あなたが変わったのがこの季節だったから」
「そう、ですね……」
少しだけ遠い目をしてマリア様を見つめる。
いつものようにマリア様は穏やかなお顔で、私たちを、いえリリアンを見守っている。
秋の朝陽がそのお姿をより神々しく見せているように感じるのは、気のせいではないだろう。
私を、志摩子を、そして山百合会を変えた祐巳のことを考えていたからかも知れない。
私が黙っていると、志摩子は静かに口を開いた。





「あら、志摩子さん」
私がいつものようにお昼を摂っていると、ふらりと現れたのは蔦子さんだった。
「蔦子さん。お昼は終わったのかしら?」
「まだ。実はお弁当を忘れちゃって、パンを買いに行ってたのよ。ご一緒していいかしら?」
「ええ、喜んで」
断る理由はない。
むしろ、夏休み前、祐巳さんに言われたことを蔦子さんならわかってくれるのかも知れない、そう思ったので望むところだった。
彼女はよく祐巳さんと行動を共にしているし、あれから気をつけて見ているとクラスの誰とも仲の良い祐巳さんだけれど、蔦子さんには単なる友人というだけでなく、どこか頼ってるような感じがして。
祐巳さんと蔦子さんは、他とはまた違った接し方をしているような気がする。
それがどういう付き合い方であるかは措いておくとして、確実なのは2人は特に近しいということで、そのことが私の疑問に解答を与えてくれるような気がしたから。
「いい場所ね。志摩子さんの秘密の場所なのかしら」
そう言って私の横に腰を下ろした蔦子さんに、すぐにでも聞いてみたい気持ちを抑えながら返事を返す。
「そんなことないわ。マリア様のお庭は誰のものでもないのだから」
「志摩子さんらしいわね」
言いながらパンの袋を破く。
ぱりん、と心地よい音が秋空に響いた。
「私らしい?」
思わず問い返してしまった。
私がクリスチャンだから?
確かにリリアンはキリスト系の学校ではあるけれど、信仰をキリストに求めている生徒は少ない。
いや、ほぼ皆無と言ってもいいのかも知れない。
マリア様に手を合わせる生徒たちも「マリア様が見ていらっしゃるわよ」と言う上級生たちも、信心から言っているわけではなくて習慣として口に出しているという感が強い。
それが悪いと言うわけではない。
ただ、少し気になってしまうということはあるけれど。

「志摩子さん、無理してない?」
逆に聞き返してくる蔦子さんは、重大な話をしようという気負いや軽い世間話と言った雰囲気のどちらでもなく。
何気ない口調で公孫樹を見上げながら話す。
その視線はけれど、公孫樹の木を見つめているわけではなく、かと言ってその向こうの青く澄んだ空を見ているわけでもないように、私には思われた。
「無理って……してないわ」
「そう」
それっきり蔦子さんは口を開かず、私も黙って箸を動かした。

彼女は何を言いたかったのだろう。
無理?
いいえ、私は無理をしていない。
だけど、少しだけ口ごもってしまったのは。
やはりどこかで無理をしている自分に気づいているのかも知れない。
誰かにわかってもらいたいのに、できない。
自分から心を開かなければどうにもならないことなのに、そうしない。
私は我が侭なのだろう。
自分の悩みを打ち明けることをせずに、そのくせ誰かにわかってもらいたがっている。
ここはキリスト系の学校だから、その言い訳に包んで自分の狭心と臆病を隠してきただけだ。
誰かに助けてもらいたい、わかってもらいたいだなんて、虫がいいにも程がある。

思わず口をついて出た溜息は、今思うと蔦子さんには聞こえていたのだろう。
「そう言えば祐巳さんがさ」
唐突に私の知りたかった本題を持ってくる。
ぴくり、と体が硬直したが何とか気づかれないように自然な笑みを返す。
「祐巳さんがどうかしたのかしら」
「彼女、喜怒哀楽がまともに表情に表れるでしょう。この間ね、そのことを言ったのよ」
確かに、彼女の表情はくるくると変わって面白い。
あの日から彼女をそれとなく観察していた私には、そう指摘された時の表情まで目に浮かぶようだった。
「そうしたら、喜怒哀楽を表に出しているかどうかはわからないけど、ひとつだけ気をつけていることがあるんだって」
「気をつけていること?何かしら……」
「笑顔」
「笑顔……」
「そう。何でも初等部の頃、上級生に言われたことがあるそうよ。『その笑顔が好き。だから、笑っていて』って」
「そうなの……」
その上級生の言ったことが、とてもよくわかる気がする。
確かに彼女の笑顔は特別だから。
穏やかな、とも明るい、それだけじゃない不思議な魅力を持った笑顔。
そんな気がしていたから。
だから私は彼女に言われたことがずっと、胸に刺さった棘のように抜けないのだから。
「でもね、その上級生が言ったことって、そういう表面的なものではないと思うのよ」
私が独り納得していると、蔦子さんは視線を空に投げかけたままで繋げる。
「その人が言ったのは祐巳さんの笑顔のことを言ったのではなくて、祐巳さん自身のことを言ったんじゃないかな、って思うの」
「わかるわ」
「そう?」
形は疑問だけれど、不思議そうな表情はしていない蔦子さんに、今度は私が続ける。
「祐巳さんはいつでも前向きだから。それは空回りすることもあるけれど、その空回りすら自身の糧にしていく強さを持っているから。それに」
「それに?」
「それは決して、今まで挫折を味わったことのない楽天的なものからくるものではなくて。辛い思いや悲しい思いを乗り越えてきた強さがあるから」
「だから祐巳さんは自分の弱さも知っている。自分の弱さを知っているから他人の強さや弱さにも敏感になれる。独りで生きていくことができないってことを本能的にか経験的にか、それはわからないけれど、それを知っているから彼女は誰にでもほんとうの意味で優しくなれる」
蔦子さんの言葉を聞きながら、私は心の中で何度も頷いていた。
それは彼女がああ言ったことが今になって理解できたことからなのか、それとも蔦子さんの言葉そのものなのにかはわからなかったけれど。

しばらく無言が続き、ただ木立を渡る秋の風だけが軽い枝鳴りを鳴らす。
天空に上り、次第に足元へと届いてくるその音に、私はしばし聞き惚れていた。

「志摩子さんは、どう?」
しばらくの沈黙の後、蔦子さんが私を正面に捉えながら囁くように、けれどはっきりと問いかける。
彼女の言葉は短くて足りないけれど、今の私たちの間では十分に通じるものだった。
「私は自分の弱さを認めていなかったわ。いえ、どこかで強くならなくちゃいけないと思い込んでいたのかも知れないわね」
風が公孫樹の葉を落とし、そのうちの一枚が私の足元に舞い降りてくる。
その葉を手に取り、それは私、今までの私なのだと思った。
「きっと、祥子さまはわかってらしたのね。自分と似ているところがあるのだと。だから私に姉妹の契りを申し込み、お姉さまに頼る方向へ持っていこうとした」
風に逆らうように宙に舞い、激しく揉まれながら落ちてくる。
強情な私そのもの。
「心から楽しいと思うことがなかったから、心から笑うことがなかった。それは欺瞞だったのだ、って初めてわかった。私が勝手に壁を作っていただけだったのね」
「それを祐巳さんに教えてもらったの?」
「ええ。夏休み前、祐巳さんに『志摩子さんって、いつもお人形さんみたいにきれいに笑うよね』って言われて。きっと祐巳さんは私を誉めてくれたのだと思っていたのだけれど、どこかで核心を突いていた。だから私はずっと、それが気にかかって」
私がそう言うと、蔦子さんは軽く苦笑しながら、
「祐巳さんは無意識なんだろうけどね」
「そうね」
ふふ、と軽く笑った私にすかさずカメラを向けると、
「それ。今の表情が祐巳さんの望んでいたものだと思うわよ」
「まあ。私、心から笑えていた?」
けれど彼女の手がシャッターボタンを押すことはなく。
色づいた秋の空に、私たちは笑い声を乗せるだけだった。
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by rille | 2004-09-25 23:18 | まりみてSS
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