「祐巳さん」
足元で枯葉が踊っているのが面白くて。つい立ち止まって眺めていたら、後ろから声をかけられた。
「蔦子さん」
ゆっくりと全身で振り返ると、そこに立っていたのは「写真部のエース」が満更自称でもなくなってきた感のある蔦子さんだった。
首から提げた愛用のカメラは相変わらずだったけれど、何故かいつものようにシャッターを切らず蔦子さんはゆっくりと落ち葉を踏みしめて近づいてくる。
微風に靡くスカートがとても秋らしくて。
毎日見ている姿なのに、初めての感覚に捕われてしまう。
不思議な気持ちで眺めていると、
「どうしたのよ、初めて会ったわけじゃないでしょう。今日も一日同じ教室にいたのだから」
笑いながら話しかけてくる。
公孫樹が黄色く色づき、まばらに混じっている楓の赤がアクセントをつける土曜日の秋。
こんな日は、いつもの友達とこうして会っているのもいいな、なんて思いながら祐巳もゆっくりと微笑んだ。
「ううん、何でも。ちょっとだけ蔦子さんが違う人に感じちゃったから」
「なぁに、それ」
「ん、よくわからないんだけど。……秋のせいかな」
「ますますわからないわよ」
そう言いながら責める口調ではない蔦子さんは、やっぱりいつもの蔦子さんだなあと思う。
カメラのレンズと眼鏡と、いつでも2つのフィルタを通して周囲を見つめながら日常を切り取っていくカメラマン。
いつだったか私がそう言うと、蔦子さんは「私のフィルタは真実を透過するためのものだから」と笑ってたっけ。
その時は聞き流していただけだったけれど、確かに蔦子さんの撮る写真は、単なる記録ではなくて記憶になっているんだと最近思うようになった。
例えば……これは複雑な気持ちなんだけど、『躾』。
あの写真も展示された時はただもう恥ずかしさでいっぱいだったから、それにまだお姉さまの妹としてやっていける自信がないこととこれから先への不安でいっぱいだったから、だからじっくりと感慨に浸る余裕なんてなかったけれど。
今思うと、あの写真も私とお姉さまの出会った風景というだけでなくて。
あの時はただ驚きしかなかったと思っていた私だったけれど、じっと見ているとただそれだけじゃなかったんだな、と自分の気持ちまで蘇ってくる。
お姉さま、あの当時はまだ「憧れの紅薔薇の蕾」に朝から会えた、しかも声をかけて頂いただけでなくタイまで直してもらったという喜びとか、何て白くてきれいな指なんだろうと思ったこととか、意外と自分も冷静だったんだなあって。
それはこうして紅薔薇の蕾となってから見ているからだ、って由乃さんや瞳子ちゃんあたりには言われてしまいそうだけど、たとえ後付けで思い出したことだって大事な思い出のひとつ何じゃないかなと思うから、やっぱりそれもある意味で蔦子さんの言う真実なのかも知れない。
「今日は写真、撮らないんだ」
今日一日、蔦子さんがカメラを構えるシーンをあまり見ていないなと思った私が言うと、軽く笑ってカメラを撫でながら答える。
「そんなことないわよ。ただ、私は写真に焼き付けたい光景と私の記憶にとどめておきたい風景とを分けているだけ」
「違うものなの?」
「他人にはわからない違い、かな。そうねぇ……ほんとうに大事な思い出は自分の心の中にだけしまって置きたい、そんな気持ちって祐巳さんにはない?」
逆に聞き返される。
けれど、不本意ながら言われるいつもの「百面相」を必要としない質問だった。
「うん、ある」
お姉さまとの出会いの写真から思い出した記憶、あれは私の中だけのもの。
だからみんなに「今となっては、ね」と苦笑されても全然気にならない。
あくまで写真から受けたものだから、蔦子さんの言ってることとはちょっと違うのかも知れないけれど。
私がそう言うと、
「いいんじゃない?それで」
「そう、なのかな」
「うん。で、今の祐巳さんは私の中にだけしまっておきたい祐巳さんだったってこと」
「……ただぼうっとしていただけなんだけど」
思わず苦笑してしまう。
蔦子さんは私から見ると恥ずかしくて仕方ないような表情をいい、と言うような人だからちょっと私の感覚とは違うのかも知れない。
「祐巳さんは自分のことをよくわかってないからね」
「うーん……」
「思い出に解説を付けるのは本意ではないけど。枯葉を見ながらぼんやりしていたかと思うと、ふと楽しそうに微笑んだりする祐巳さんは、とても可愛かった」
「か、可愛いって……」
自分と同じ女子高生を好きな蔦子さんだから、まあ今更何を言っても「蔦子さんだしなあ」で済んでしまうんだけど。
そうは言っても同じ女の子、クラスメイトに面と向かって「可愛い」なんて言われるのはやっぱり慣れない。
不思議だな、聖さまやお姉さま、それに由乃さん志摩子さん、瞳子ちゃんに可南子ちゃん。要するに山百合会の大半の人にも言われるけど、蔦子さんに言われるのとは少しだけ違う気持ちがする。
何でだろう、他の人に言われるとからかわれてるって気がするだけなのに。
どきどきしてしまって。
そう、まるで男の子に言われてるみたいな……感じ?
いや、もちろん男の子に言われたことなんてないんだけれど。
2人でマリア様に手を合わせると、並木道を正門に向かう。
歩き始めたところで、思い出したように蔦子さんが言った。
「そう言えば」
「なに?」
「さっきのあれ、結局何だったの?」
「あれ?」
「ほら、『違う人みたい』ってやつ」
「ああ、あれね。うん、何だったんだろう?」
「私が聞いてるんだけどな」
苦笑する蔦子さんを見て、そうだね、と答えてちょっと考え込んでしまう。
思い出させられてしまうと気になってしまうから。
枯葉が雪みたいに降っていて。
遠くから聞こえる部活動の音が微かに夏よりも澄んだ空に響いて。
お姉さまや山百合会の皆には悪いけれど、何となくこんな日は独りでいるのもいいなと思っていた。
理由がないのに訳もなく独りでいたい時ってあると思う。
それは別に、いつものメンバーが煩わしいということではなくて、そしてもの悲しい気分だからというわけでもなくて。
マイナスな意味でなく、プラスの意味で。
今まではあんまり思ったことなかったんだけど、今日はそういう気分だった。
「独りで過ごすこんな時間もいいな、と思ってたところに蔦子さんが来てね」
「あら、それは悪いことしちゃったかしら」
きっと蔦子さんはわかっているんだろうな。
だって、笑っているもの。
だから私も笑って答える。
「ううん、そうじゃなくて。空がとってもきれいで澄んでて、赤や黄色がそれに溶け合って。そんな時間の中にいる自分が好きになるっていうか」
「おー、祐巳さんって詩人?」
「へ?からかわないでよ、もう」
茶化してくる蔦子さんを軽く睨んで、
「いつものリリアンなんだけどちょっとだけ特別な時間のような気がして。でもね、ずっとこうしているのもいいなって思ってたのが段々と、ああ、誰かにも見て欲しいな、こんな時間をって思って」
もったいなくていつもより足をゆっくりと動かす私を、蔦子さんは穏やかに微笑んだままゆっくりと歩調を合わせてくれている。
「そうしたら蔦子さんが来て。落ち葉と風の中にいる蔦子さんが何だか……とってもきれいで」
「照れるぜ」
「親父っぽいなあ、蔦子さん」
思わず声を上げて笑ってしまう。
自分が恥ずかしいことを言ってしまった照れ隠しもあるんだけど。
私の笑い声に蔦子さんのが重なって、少しの間足を止めて2人の唱和を高い空に乗せて上げる。
「結局、何となくってことね」
「そうかも。うー、私、ほんとに国語力ないなあ」
「そういうわけじゃないんじゃないかな。祐巳さんは百面相だから、気持ちを言葉にする前に察せられてしまうんじゃない?」
「……確かにそうかも」
「だからあんまり気持ちを言葉にする必要がなくて。それでこんな時に困ってしまうだけだと思うわ」
ああ、何て的確なお答え。
蔦子さんは敢えて言わなかったんだろうけど、私もお姉さまも思っていることを相手に伝えるのが下手だ。
言葉に出して言わないからすれ違って。
これ以上ないほど落ち込んでしまったりしたのは今年の夏の初め。
そんな状態を救ってくれたのは……
「でも、それが祐巳さんだから。私にとってはそれでいい」
「え?」
どういうことだろう?
素直に「どいういうこと?」って聞けばいいんだろうけど、何となく躊躇われてそのまま疑問の視線を蔦子さんに向けるだけだった。
そんな私をよそに、ふと蔦子さんはカメラと並ぶトレードマークの縁なし眼鏡を外した。
怜悧で聡い祐巳さんに、どんな価値があろう。
私にとっての祐巳さんは、子ダヌキで抜けていて明るくて百面相で、とても繊細だけれどそのせいで傷ついてしまっても立ち直れる強さを持っていて。
夏が似合うと言う人もいるけれど、私にはこんな静かな秋の方が祐巳さんには似合うと思う。
夏。
祐巳さんにとっても紅薔薇さまにとっても大きな出来事を乗り越えた記念すべき季節なんだろうけど、以前と違って「妹」としての祐巳さんや「姉妹」としての紅薔薇より祐巳さん個人に興味が移っている最近の私は、心でシャッターを切ることが多くなっていた。
その分、私の中の祐巳さんはどんなフィルタも通さない、生の姿で記憶されていっている。
ただ明るいだけじゃなくて。
脆いところもあって、それでもそんなところを隠したりしないで寂し気な雰囲気を薄く纏った祐巳さんは、こんな秋の日が一番似合うのだと。
だからさっきも私はカメラのシャッターを切らなかった。
きっと私は、祐巳さんが好きなのだ。
それがどう意味の「好き」なのかまだわからないし、これからもわからないかも知れない。
ただ、被写体としての祐巳さんを今の私は見ていない。
それだけははっきりしている。
だからこうしてこんな場面で祐巳さんに会えたことは、素直に嬉しい。
きれいで、という言葉と違う人みたいと言う言葉の間にも、普通なら気にするか突っ込むところなんだろうけど、私は祐巳さんをよくわかっているしこういう時に突っ込みを入れるのは私以外に山ほどいる、隠れ祐巳さんファンのクラスメイトの役割だから。
彼女たちはそうして困った様子をしたり慌てふためいて訂正する、「百面相」祐巳さんの明るさに惹かれている人たち。
でも私は、被写体としての祐巳さんを見なくなってから、軽い会話の中に見えるほんとうの祐巳さんが好きだから。
「照れるぜ」
「親父っぽいなあ、蔦子さん」
ほら、そうして笑う祐巳さんがとても可愛らしくて。
いつものように前向きな祐巳さんもいいんだけれど、こんな時間には少しだけ寂しげで透明な祐巳さんの明るさの方が似合う。
これは私と祐巳さん……それからもう1人いるとすればあの人だけが過ごせる時間。
こんなに落ち着いた祐巳さんとの時間を過ごせるのは特権だから。
2人してひとしきり笑うと、私は問いかける。
「結局、何となくってことね」
「そうかも。うー、私、ほんとに国語力ないなあ」
そう言って薄く笑う祐巳さん。
けれど国語力の問題というよりは、
「そういうわけじゃないんじゃないかな。祐巳さんは百面相だから、気持ちを言葉にする前に察せられてしまうんじゃない?」
「……確かにそうかも」
「だからあんまり気持ちを言葉にする必要がなくて。それでこんな時に困ってしまうだけだと思うわ」
独りで写真を整理していると、様々な祐巳さんに出会う。
笑っている祐巳さん、むくれている祐巳さん、悲しげな祐巳さん、困っている祐巳さん……どれも祐巳さんだ。
でも私にとっての祐巳さんは、あの人と一緒に微笑んでいる祐巳さんが、あの、空を高く見せる透き通った秋の空気のような微笑みを湛えた祐巳さんが、私にとっての祐巳さんだ。
ころころと表情の変わるのは見ていて楽しいけれど、その中からほんとうの祐巳さんを見つけ出せる人がどれほどいるのだろうか。
確かに表情から祐巳さんの気持ちを推測することはできる。
でも、こんなに儚げに笑うこともあるのだということを、いったいどれだけの人が知っているだろう。
表情の変化に惑わされて。祐巳さんの気持ちを推測することで祐巳さんをわかった気になっていたのは私も同じだったけれど。
「でも、それが祐巳さんだから。私にとってはそれでいい」
そう、私だけが知っている祐巳さんはそう簡単に見つからないから。
祐巳さんが「百面相」のあだなを持っている限り、それに惑わされる人は沢山いるのだろうから、これは私の特権。
「え?」
私の言葉が意外だったのか祐巳さんが疑問の眼差しを投げてくるけど、私はそれには答えず。
こんな日にはフィルタを通さない祐巳さんを見ようと、眼鏡を外した。
「あ」
と、祐巳さんが小さく声を上げる。
それは枯葉の音に掠れて消えてしまうほどの小さな呟きだったが、私の耳は聞き逃さなかった。
「どうしたの?」
「目がね」
「眼鏡?」
私が聞き直すと、祐巳さんは一瞬だけきょとんとした表情をした後に笑いだす。
「あ、そっちの方じゃなくて。私が言ったのは『目が、ね』って意味」
「ああ、そういうことね。それで?」
先を促す私に、
「蔦子さんの目がね、よく似てるの」
「似てる?誰に?」
私の質問は、高い秋の空の向こうへ。
祐巳さんは微かに微笑んで答えなかった。
そして私もそれ以上は聞かなかった。
2人とも、わかっていたから。
私も久しぶりに、あの人と祐巳さんの姿を見てみたい、そう思った。
「あら、こんなに近くだったのね」
在学中もあまり通らない道だったからわからなかった。
この角を曲がると、
「ここを抜けるとあの道、なんだ……」
ちょっとした用事で友人の家へ来ていた私は、行きは駅まで車で迎えに来てくれたので帰りの道を聞いた。
帰りも送ってくれるという申し出を断ったのは、ここがリリアンの近くであるということはわかっていたからリリアンまでの道を教えてもらえれば問題ないと思ったし、それにこんな晴れた秋の空の下、歩かないのは少しもったいない気がしたから。
リリアンの正門前を通る道に出た私は、ふと懐かしくなって一番近いバス停を素通りしてリリアンへ向かう。
行ってどうなると言うわけでもない。
卒業した以上、無闇に構内に立ち入るのも遠慮される。
けれど、何となくあの公孫樹並木が見たくなった私の足は、自然とそちらへ向かってしまっていた。
学園の塀沿いに歩いていくと、向こうに黄色く色づいた木々が見える。
懐かしい光景だ。
ゆっくりと歩みを進めながら、私は思い出をなぞる。
山百合会、クラスメイト、楽しかった日々。
そしてそれなりに充実していた高校生活に、更に彩りを加えてくれたあの子のことを。
……そうだ。
自分が弱い人間であることを知っていたから、なるべく近づかないようにしていたという方が正解に近いのかも知れない。
あの子の傍にいると、それだけで満足してしまうから。
雰囲気が溶け込んで、周囲の風景や時間とひとつになる、そんな心地よさを共有できるのはあの子といる時だけだから。
どうしてだろう、と考えてみたこともある。
けれど答えは決まって、感情と同じように人と人の関わり合いに理由などない、に行き着くだけだった。
通いなれた道を歩き、正門が近づいてくると切ないような泣きたくなるような、不思議な気持ちになっていく。
私も弱いな、そう思いながら塀沿いを歩き、やがて。
「でも、それが祐巳さんだから。私にとってはそれでいい」
正門もすぐそこ、という時になって微かに声が聞こえた。
単なるリリアンの生徒ではなく、小さいけれどそれが私にとってもけして軽い存在ではない少女のものだと気づくのは一瞬のことだった。
まだ声は小さい。それならば、もうしばらくは談笑しながらこちらへ近づいてくるのだろう。
そう思った私は足を止めていた。
「どうしたの?」
「目がね」
「眼鏡?」
「あ、そっちの方じゃなくて。私が言ったのは『目が、ね』って意味」
「ああ、そういうことね。それで?」
「蔦子さんの目がね、よく似てるの」
「似てる?誰に?」
一緒に聞こえてくる声は、忘れもしない祐巳ちゃんの声だ。
それも即座にわかってしまった私は、踵を返そうとしたが思いとどまった。
そうさせたのは、恐らく祐巳ちゃんではなく蔦子ちゃんの声が一緒だったからだろう。
『弱いものだわ。それはもちろん、私もね』
なぜこんなことを蔦子ちゃんと話したのだろう。
それはもう定かではないし、思い出す必要もないような気がする。
大事なのは、私がそれを機に自分の弱さを見据える覚悟と受け入れる心積もりができたということ。
たまたま教わった道がリリアンに近かったから。
母校を見て懐かしさを感じたから。
そんな理由であるわけがない。
卒業してから何年も経っているわけではないし、高校時代を懐かしむといったことも私にはなかった。
『弱くていいと思います。それを知っているから、祐巳さんは他人に優しくできるんだと思いますから』
そうだ。
だから私は遠回りでもこの正門へと向かったのだ。
心のどこかで、あの子に会えるかも知れないと思ったから。
会いたいと思ったから。
そうだ、私は祐巳ちゃんが好きで。
だから会いたくて。
何となく物悲しげなこんな季節のこんな日には。
彼女に会いたくなってしまうのだ。
どうせ人は一人では生きられないということをよく知っている、そしてそのことを私にも蔦子ちゃんにも言葉でなく教えてくれた、人に優しくなれるあの子に会いたくなってしまって。
我慢する必要はない。マリア様の庭を出て、ちょっとだけ世間で頑張ってみている私への、ご褒美にしてみてもいいかも知れない。
だから、会って行こう。
そうだ、ここで待ち伏せして彼女たちの驚いた声で公孫樹の枯葉を舞い散らせるのも、秋の昼下がりの一興になるだろう。
近づいてくる足音とお喋りを耳にしながら、私は知れず微笑みを浮かべていた。
そう。
ちょっとだけいつもと違って、ちょっとだけいつもより優しい気持ちになるのだ。
秋色に満たされた、こんな日には。