半歩だけ下がって。





窓から入る風もすっかり冷たくなった、ある日の放課後。
白薔薇さまは読みかけの文庫本を伏せたまま、椅子に腰かけて外をぼんやりと眺めていらして。
誰もいないと思ってドアを開けた私は、ちょっと驚いてしまったのだ。

「あ、すいません。誰もいらっしゃらないかと思って」
謝る必要はないのだけれど、その時の白薔薇さまのどこか寂しげな表情が、私に「ごきげんよう」より先にそんな言葉を出させた。
「あら、笙子ちゃん。ごきげんよう」
ゆっくりと微笑んだ白薔薇さまは、もういつもの表情で。
「ごきげんよう、白薔薇さま」
だから私も、さっきのは見間違いだったのかとも思ったのだけれど。



「ねぇ、笙子ちゃん」
「なんですか?」
私は何となく、祐巳さまがいらっしゃってたらいいなと思って足を向けただけだったので、特別用事はなかった。
ただ、そのまま何もせずに帰るのも変かと思い、白薔薇さまの冷めてしまった紅茶を入れ替え、自分の分も用意すると何となく白薔薇さまに合わせて文庫本に目を落とした。
夕暮れの赤にはまだ早い時間。
運動部の声も活発で、何となくこんな時間もいいなと思いながら3ページほど読み進めたところで声をかけられた。

視線を上げると、白薔薇さまはどうやらタイミングをはかっていたようだった。
文庫本は伏せたままだし、紅茶には手をつけた形跡は見られない。
普段あまり接点のない私たちは、こうやって何となく時間を過ごして。
ほんの少しの会話と読書と紅茶だけがこの部屋に満ちていくのだと思っていたから、白薔薇さまがこんなに真剣な表情で私に話しかけてくるというのは、少し意外だった。

「白薔薇さま」
呼びかけたまま、言葉を探すように逡巡する白薔薇さまに、私から尋ねてみる。
「祐巳さまのことですか?」
それを聞いた途端、ぴくり、と肩を動かして視線を伏せる。
けれどそれは些細な変化で、すぐに、
「あら、どうして?」
いつものように穏やかな微笑みが返ってきた。
それでも私は、「ああ、やっぱりね」という気持ちだった。
薔薇の館に来ている目的が祐巳さまである以上、私の視線はどうしても祐巳さまを追ってしまう。
ほんとうは祐巳さまだけが見られる便利な視界があればいいんだけど、残念ながら人間の目はそう都合よくできていない。
どうしても祐巳さまの周囲まで目に入ってしまうわけで。
紅薔薇さまや瞳子さん、可南子さんは当然としても、祐巳さまに向けた視界に頻繁に入ってくるのが白薔薇さまだということに気がついたのは、すぐだった。

私がそのことを言っても、白薔薇さまは表情を崩さなかった。
「そう、笙子ちゃんにはわかってたのね。考えてみれば祐巳さんの近くにいたくてここへ来るようになったのだから、当たり前よね」
そう言うと、何かを思い出したかのように笑った。
「でも、同じ目的で来ていても気づいてない人もいるみたいだから、安心していたのだけれど」
瞳子さんや可南子さんはそうだろう。
彼女たちの視界はきっと、私より便利にできているに違いない。
というよりも、お互いを牽制し合うことで忙しいと言うべきかも知れないけれど。
「でも、私が気づいているってことも、おわかりになっていたんですよね」
「ふふ、どうかしら」
曖昧に誤魔化されてしまったけれど、そうでなければ白薔薇さまから話しかけられるはずがない。
ただ、そのことで問答をするつもりはまったくないし、そもそもこの流れの中心は祐巳さまについてなのだから。
「それで、祐巳さまがなにか?」
話を逸らす必要もないと判断した私は、明確な返事を貰ってないにも関わらず尋ねた。
白薔薇さまも、ここまで来てはぐらかすつもりはないようだった。
「祥子さまに祐巳さんが必要だってことはわかるの。これはもう理屈ではなくて。瞳子ちゃんや可南子ちゃんが祐巳さんに惹かれるのはきっと2人とも、自分にはないものを祐巳さんの中に見つけたのだろうと思う。ただ……」
「どうして私が祐巳さまを好きなのか、ですか?」
「ええ。蔦子さんを通じてお知り合いになったというのは聞いていたけれど、その後もあまり祐巳さんと接触はなかったでしょう?」
言っている内容は質問。
だけど私は、ああ、この人はほんとうに祐巳さまが好きなんだな、と思った。
夏休み前に祐巳さまと紅薔薇さま、そして瞳子さんの間で何があったかは私も知っていた。
結末は蔦子さまから聞くしかなかったけれど。

その時は前白薔薇さまが祐巳さまを支えてくれたらしい。
『祐巳さんが立ち直ったことを一番喜んだのはきっと由乃さん。でも、一番落ち込んだのは志摩子さんじゃないかしら』
『え?白薔薇さまが、ですか?』
『そう。わからないって顔してるわね』
『ええ。理解というか……想像もできません』
『祐巳さんを好きな人間のひとりとしては、気になる?』
『……はい』
『じゃ、薔薇の館に行こうか』
『今からですか?』
『そうよ、善は急げ、ってね』
『で、でも、そんなことのためだけに行くのはちょっと……』
『あー、それなら大丈夫よ。ちゃんと別の理由を考えてあるから。祐巳さんの近くにいたいよね?』
『ええ、それはもちろん』
『字もきれいだし、計算も速く、慎重さも持ち合わせてる。能力的にはまったく問題ないと思うのよ』
『あの、蔦子さま?何のことを仰ってるんです?』

結局そのまま薔薇の館でお手伝い、ということになってしまった。
もちろん蔦子さまに「被写体として最高な山百合会に近づくには、ツテは多ければ多いほどいい」という目的があったのは確かだけれど、それはそれとしても感謝している。
祐巳さまと毎日一緒にいられるのはもちろん、白薔薇さまがどうして落ち込んだのかもわかったから。

この人はきっと、祐巳さまを悲しませた人たちではなく、何もできなかった自分が許せないんだろう。
私が見てきた白薔薇さまの祐巳さまに接する態度は、紅薔薇さまや瞳子さん可南子さんのそれとは異なり、さり気なく見守っているという印象を受けた。
祐巳さまの変化を見逃さないようにしているというか。
「祐巳さまをほんとうにわかってあげられる人しか近づけたくない、ということですね、白薔薇さま?」
私がそう思われているのかどうか、それはわからなかったけれど、別に悪い気持ちではなかった。
そうやって祐巳さまを気遣っている人がいる、そしてそれが白薔薇さまであることに対して、不思議な安堵を覚えたのかもしれない。

「気を悪くしないでね。笙子ちゃんがそうだと言っているわけではないの」
少しだけ不安そうな顔で言う白薔薇さまが、何だかとても可愛かった。
上級生に、それも2年生にして生徒会長である白薔薇さまをそんな風に思うのは失礼なのかも知れないけれど。
だから私は安心させるように笑って、
「わかっています」
と答えた。
「私も同じですから」
それだけでわかってくれたみたいだけれど、私は言葉を継いだ。
何となく、この人には言ってみたくなったから。
「出会ってからまだ1年も経っていないですけど、私の中には祐巳さまとの大切な思い出が沢山あります。それは楽しいことも悲しいことも」
そう、過ごしてきた時間は短いけれど、時間では計れないほどの思い出を沢山作ってくれた。
「私は笑ってる祐巳さまが、一番好きです。悲しいことも乗り越えられる祐巳さまが好きです。そんな祐巳さまに憧れてるから一緒にいたいのかも知れません」
言葉では言い尽くせないことが山ほどある。
すべてを伝えることはできないけれど、拙い言葉でも今の自分が思っていることを正直に話せばいい。
白薔薇さまもきっと、私と同じだから。
「時間を共有したいんです。祐巳さまが楽しい時には一緒に笑いたい。祐巳さまが悲しいときには傍にいてあげたい。祐巳さまを独りぼっちには、したくないんです」
それを言った瞬間の、白薔薇さまの表情は何とも言えない不思議なものだった。
何もできなかった自分を責めるような、同じ気持ちの人間を見つけて嬉しそうな。
けれど、そんな見極められない表情をすぐに消すと、やっぱり白薔薇さまは微笑んだのだ。
「ありがとう、笙子ちゃん」

白薔薇さまがよく笑顔を見せるようになったのも、祐巳さまの影響だったのだ、ということをふと思い出した。
以前の白薔薇さまのことは知らないけれど、ある時を境にほんとうの笑顔を見せるようになった、と。
それが祐巳さまが山百合会のメンバーになった頃であるのは、
『偶然よ、きっと』
と、蔦子さまは可笑しそうに笑った。

「一緒にいたい、そう思わせる人ね、祐巳さんは」
微笑んだままそう言う、白薔薇さまを見ながら私はしきりに頷いていた。
まったくだ。
ほんとうに、祐巳さまは不思議な人だ。
全校生徒の憧れであり、山百合会のメンバーからこれだけ愛されていて、そのことにまるで自覚のないことも。
でも、だからこそ皆が何とかしてあげたいと思うのかも知れない。

「それはもう。祐巳さまですから」
「そうね。でも、祐巳さんをそうやって見守ってくれている人がいて、私も嬉しいわ」
「見守るだなんて。私には何もできませんから。ただ……一緒にいるだけです」
「誰かがいつも傍にいてくれること。これほど嬉しいことはないのよ?」
乃梨子さんのことを言っているのだろうか。
そう思って表情を窺ったが、そこからは何も読み取れなかった。
「あ、お茶が冷めてしまいましたね。淹れなおします」
自分の気持ちを言ってしまったら何となく恥ずかしくなってしまった私は、流しに行こうと腰を浮かせかけた。
それを制して、
「いいわ、今日は私に淹れさせて」
「え、白薔薇さまにそんなことさせられ……」
「いいの。今日は何となく嬉しいから。淹れたい気分なのよ」
「はあ。では」
仕方なく腰を下ろすと、入れ替わりに白薔薇さまが立ち上がって嬉しそうに流しへ向かう。





紅茶と談笑、そしていつしか眠ってしまっていたらしい。
気がつくとテーブルにうつ伏せている私に、赤い夕陽が降り注いでいた。
「あ……ロサ・ギガンティア?」
部屋を見回してみたが、あるのはオレンジに染まった空気だけ。
さっきまで使っていたカップも洗ってあり、人影はまったくない。
今まで2人がいたことを忘れてしまっているかのような部屋で、私はテーブルに置手紙を見つけた。

『よく眠っているようなのでお先に失礼します。今日は楽しかったわ、ありがとう』

人柄を感じさせるような筆跡。
思わずこぼれてしまった笑みは、白薔薇さまへのものか、それとも白薔薇さまを前に眠ってしまった自分に対する苦笑だったのか。
ノートの切れ端のようなメモは、ちょっとイメージとは違う気がしたけれど。
いびつに切り取られたそれは祐巳さまならイメージ通りかな、そう思いながら立ち上がりかけた私の耳に、扉の開く音が入ってきた。

「あ、笙子ちゃん。ごきげんよう」
「祐巳さま……ごきげんよう。あの、今日は何かご予定が?」
こんな時間に来るなんて、どうしたのだろう。
そう思って尋ねた私に、
「あれ?志摩子さんに伝えたんだけどな。用事があるから遅くなるけど待っていてくれるなら一緒に帰ろうって」
うーん、と悩む様子の祐巳さまを見ながら、私は白薔薇さまに感謝した。
ふ、と思いついてメモをひっくり返して見ると、やはりそこには追伸があった。

『お礼に今日は譲るわね。でも、これからは3人で一緒に帰るのもいいわね。志摩子』

「祐巳さま」
まだうんうん唸っている祐巳さまに近づくと、メモを渡す。
きょとんとして受け取った祐巳さまの視線が文字を追い、次第に恥ずかしそうな、嬉しそうな表情に変わっていく。
そして目をメモに落としたまま、
「そうだね、志摩子さん」
そう呟くように言うと、満面の笑顔で私に言った。

「じゃあ、一緒に帰ろう、笙子ちゃん」

夕陽に照らされた祐巳さまの笑顔は、ほんとうになにものにも変え難いものだ、と私は思った。



「祐巳さま」
「なあに、笙子ちゃん?」
長く伸びた2人の影を見ながら、私は「そういえば」と前置きをした。
「いつもは白薔薇さまと一緒に帰ってるんですか?」
「いつも、じゃないよ。お姉さまと帰る時も多いし。でもお姉さまと一緒じゃない時は大体いつも一緒かな」
「乃梨子さんは」
「うん、それがね。そういう日は乃梨子ちゃん、必ず先に帰っちゃうんだよね。何でだろう?」
落ち葉の舞う中で、再び祐巳さまは悩み始める。
そんな様子を見ながら、私は思わず苦笑した。

「大変ですね、白薔薇さまも」
「え?」

祐巳さまは誰にでも惜しみなく愛情を注ぐ方だから。
だからこそ自分に注がれる愛情には気づき難いのかも知れない。
でも、大変なのは白薔薇さまだけじゃなくて。
紅薔薇さまも瞳子さんも可南子さんも、みんなそうなんだろうな。

もちろん、私も。

「みんな一緒なんですよね、大変なのは」
「え、え?何、何のことなの、笙子ちゃん?」

でも、だから奪い合うんじゃなくて。
一緒に祐巳さまを挟んで歩くのもいいかも知れない。
白薔薇さまと祐巳さまと私。
並んで歩くのはちょっと申し訳ない気もするから、半歩だけ下がって。

2つの影と、ほんの少し短い1つの影。

そんな風景を思い浮かべて、嬉しくなってしまった。

「ねー、笙子ちゃんったらー」
「内緒です。それくらいご自分で考えてみてください」
「うわ、笙子ちゃんが瞳子ちゃんになった」
「失礼な」

秋空に笑い声を響かせながら、いい一日だったな、と思った。
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by rille | 2004-10-09 00:17 | まりみてSS
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