正しいリリアンヌの朝は挨拶から始まる。
「ごきげんよう」
もちろん、平凡一直線、取柄も特徴もない一般リリアンヌを自称する祐巳としては尚更、『ごくごく平凡なリリアン女子学園生徒』としての枠をはみ出すはずもなく。
「ごきげんよう、蔦子さん」
後ろから声をかけてきた自称――最近では通称といった方がいいような感じだけど――写真部のエースにゆっくり振り返ると返事をする。
なぜかちょっと苦笑しながら祐巳の隣に立ち、短めのお祈りを済ませた蔦子はその苦笑を貼り付かせたまま祐巳に向き直って口を開いた。
「相変わらずだね、祐巳さん」
「へ?」
ああ、朝から間の抜けた返事をしちゃった。これをお姉さまに聞かれてたらまた叱られちゃう、と慌てて周囲を見回すけれど、優雅一直線、時折宇宙人のお姉さまの姿は今朝はどこにもなかった。
ほんとにもう、しょうのない子ね。なあんて言いながらも微笑んでタイを直してくださるお姉さまとすいません、お姉さまとか何とか言っちゃってタイを直された後にそっと頬に触れてくださるお姉さまの指がああいやんいやん、と妄想にふけりそうになる自分にはっと気がついたというわけでもなく。
「祐巳さん、妄想妄想」
あっちの世界にはばたけ青春!な祐巳の足をつかんで無理やり地上に舞い降りた最後の天使、ああもう訳わからないけれど、とりあえず現実に戻してくれたのは蔦子さんで。
そんなところにも、自分の『お姉さまにいじめられ……きゃっ♪』というちょっと危なくなってきた性格というか頭に幾ばくかの不安を感じてしまったり。
ああ、もはや自力で現実に戻ることすらできないのね、よよよ……と自称女優、傍から見れば祐巳の前では三文芝居にすらなっていない瞳子ちゃんばり(?)の演技で泣き崩れる(ふり)の祐巳を見つめながら軽くため息をつく。
「ところで、相変わらずって?」
やっと戻ってきたか、とそれでも前の話題を忘れていないところに少しは成長があるのかしら?と思いながら蔦子は返事を返す。
「うん、相変わらず頭がお花畑ね……じゃなくて、ああ、ごめんってば」
祐巳のうるうる上目攻撃、つまるところレベルBに慌てて両手を合わせて頭を下げる。
こんな人目の多いところで発動されたらたまらない。
「人目が多い?」
祐巳は思わず口に出してしまっていた蔦子の言葉に反応して周囲を見回すが、まだ早めのこの時間帯、ちらほらとすら生徒の姿は見えない。
遠くの正門近くにバスが到着したのか、数名の姿がある他はマリア様の前でお祈りしている生徒すらおらず、近辺で人影と言えば自分と蔦子さんくらい。
「あー、いいのいいの。気にしないで」
「そう?」
「うん。で、何だっけ?祐巳さん何か聞きかけてなかった?」
「あ、そうだった。相変わらずって何が、ってこと」
純粋無垢な瞳を向けられてちょっと焦る。
こんな目して妄想癖があるんだもんなあ、と軽い頭痛を覚えながらそのことを指摘してやると、
「酷いよ蔦子さん。妄想なんてして……るけどさ」
「自覚あるんだ」
「う。まあ、お姉さまのことになると、ちょっとは」
「祥子さまのことになると、ねぇ……ま、他の山百合会幹部よりはましかな」
「他の?令さまや志摩子さんとか?」
「うん」
「そっかな。瞳子ちゃんや可南子ちゃんにその気があるのは何となくわかるけど……あとお姉さまと由乃さんにも。でも、令さまと志摩子さんに乃梨子ちゃんにはないんじゃない?」
「何気に自分のお姉さまを貶めやがったな」
「へ?」
「いやいや、こっちのこと。私の見たところ、祥子さまたちはまだマシだと思うわよ。あからさまな分だけね」
いや、それでも問題はあるけどさ、と蔦子はちょっと増してきた頭痛を意識からはじき出そうと無理矢理『祥子さまが昨日蔦子から購入した祐巳お宝写真を授業中に眺めて涎の海を作ったこと』や『可南子ちゃんが昼休みにミルクホールで祐巳を見かけ(本人談)て転げ回り机3、椅子6の被害を出したこと』や『クロワッサンを祐巳のツインテールに似てると話をしていた由乃さんが令さまに大量のクロワッサンを作らせて緩みきった表情で食べていたこと』や『学生服を着た祐巳さんとダブらせて下校中に襲った瞳子ちゃんのせいで祐麒さんが翌日アリスが購買で買って来たコロネに異常なくらい怯えていたこと』などを忘却の彼方に捨て去った。
「あの3人が妄想してるとこなんて、見たことないけどな」
「だから性質が悪いんじゃないの」
首を傾げる祐巳に小声で囁く。
うっかり聞かれでもしたら……背中に冷たいものを感じてこれ以上は危険だと判断、
「ゆ、祐巳さん、そろそろ教室に行きましょう」
「へ?いいけど……どうしたの蔦子さん?顔色悪いよ」
「まあまあ、いいから」
二つの足音が去ったマリア様の前で。
がさがさ
がさがさ
わらわらと現れる人影、総数66名。
その中には当然この人たちの姿もあるわけで。
「……気づきやがりましたか」
「可南子ちゃん、あなたその手の藁人形はなに?微妙に蔦子ちゃんぽいけれど?」
「うふふ。まだまだね、可南子さん」
「志摩子さん、あなた何したの?何か向こうから蔦子さんの悲鳴が聞こえるけど」
「さすがですお姉さま。朝から祐巳さまに近づく不埒な輩を遠隔で被害に合わせるなんて……尊敬します」
「乃梨子さん、白薔薇一家への見方が瞳子ちょっと変わりましたわ……」
「あ~何か祐巳ちゃんの残り香が……はふぅ」
妄想を普段表に出さない人たちは、表に出している人たちよりも激しいようで。
「……でも、祐巳さまも同じですわね。祥子お姉さ……紅薔薇さまのことを考えて妄想しているんですから」
「祐巳がくねくねしていたのはそういうことなの?!もう、そうならそうと言ってくれれば……待ってなさい祐巳、今妄想を現実にしてあげてよ!ほーほっほっほ……」
「ドップラー効果を残して去っていくなんて……ていうか、今回のオチが「もう、そう」なんてことはないですよね」
「あら桂さん。どうしたの珍しいじゃない」
「ごきげんよう由乃さん。いえ、去年は私の出番がなかったけど、今年は私を書くぞというアピールらしいわ」
「またまた。桂さんもうそ、うまいんだから」
「由乃さま?もしかして、これがオチってことは……」